親鸞聖人ってどんな人?
今から800年前、親鸞聖人は90年の生涯を歩まれました。平安貴族の政治が終わりを告げ、武家政治の時代を迎えて、戦乱・疫病・飢饉が続くたいへんな激動の時代でした。
そんな困難な時代に生まれ、幼い時に両親と別れ、9歳で出家し、比叡山での修行に励みます。その修行とは煩悩を断ってさとりを得るというものでした。しかし20年という長い間厳しい修行を積んでも、それを成し遂げることはできませんでした。
どれだけ修行してもすべての煩悩を断ち切る事が出来ずに苦しむなか、親鸞聖人は、「求めるべき本当の救いとは何か?」と悩みます。
苦悶の日々は、やがて法然上人との出会いを促します。「煩悩をもったままでよい。ただ念仏して阿弥陀仏にたすけられなさい」という教えに出遇うのです。
煩悩の身が大切だとは思えない親鸞聖人に、法然上人は「念仏を称えれば、阿弥陀仏はそのままのあなたを救ってくださるのです」と語りかけました。
縁があれば悪い心が起こり、互いに傷つけあうことでしか生きられないのが私たち人間である、そのような人間という存在を阿弥陀仏は平等に悲しみ、だからこそ救われてほしいと願い続けてくださっている。あなた自身の煩悩の身をとおして、その仏の心(本願)に出遇って生きていきなさい、と。
この教えに出遇った時の親鸞聖人のよろこびは、「たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしても、少しも後悔はいたしません」と『歎異抄』に伝えられています。
一方、念仏の教えは、既成仏教界から危険視され、ついには朝廷から法然上人と門弟に厳しい弾圧が加えられました。なかには死罪になったものもおり、親鸞聖人も僧籍を剥奪され、越後(新潟県)へ流罪となったのです。
流罪の地・越後で数年間を過ごした後、親鸞聖人は家族とともに関東の地に移ります。越後・関東での20数年間は、汗と土にまみれて懸命に生きる人々と暮らす日々でした。厳しい生活を共にしつつ、どんな人もこの身の尊さと厳粛さを見いだして生きていく、これが、親鸞聖人が生涯をかけて求め続けていった念仏の道でした。
親鸞聖人は晩年に京都に帰り、その後、和讃などの多くの著作や門弟への手紙などを精力的に執筆され、教えを伝えられました。なかでも主著『顕浄土真実教行証文類(教行信証)(けんじょうどしんじつきょうぎょう)』は、人類救済の聖典として、その力強い筆跡とともに、現代まで伝えられています。
東本願寺真宗会館 情報誌『Prati(プラ・ティ)』の文章に加筆したものです。